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第九章 メンタルの側面(その2)

前回の記事はこちらです。

ゴルフのどのような一般論においても、あるいはゴルフというゲームをいかに上手くプレイするかについての議論において、このゲームのメンタルの側面について触れる事は必須である。しばしば言われていることは、ゴルフにおける諸問題のかなり割合をメンタルの問題が占めているということであり、これは疑いようのない事実であるように思われる。ただしこれらの議論は、ゴルフの何をもって「メンタルの側面」と認識するかによる。もしゴルフクラブをストロークする際に、何を意識するべきなのかという問題であれば、あまり身のある議論...
第九章 メンタルの側面(その1) - 大庭可南太の「ゴルフをする機械」におれはなる!

ゴルフを学ぶ上で、過度のイマジネーションというものは時として多くの人にとって深刻な落とし穴となることがある。イマジネーションというものは、意識的な思考の活発な活動の結果である。これは私たちの生活における最も重要な要因の一つと言える。私たちは物心ついた時からこのイメージという活動のトレーニングを重ね、おそらくこれを人生の全ての日々で行っている。あるいはゴルフのプレイを学ぶときだけ、蛇口の栓をひねるようにこの想像という活動をオフに出来るのならば素晴らしいことだが、当然の事ながらそのようなことはほぼ不可能である。私たちが望むにせよ望まないにせよ、このイマジネーションという活動は起きている間は機能し続けるのであり、ゴルフをしているフィールドにおいてもそれは例外ではない。

 

これまで私は何千人ものゴルファーにレッスンをしてきたが、そのうち十人に九人は、当初自分のゲームの何が悪いのかを聞きたがるように思う。たしかに、もしそれを自分でわかっているのであれば私のところにレッスンを受けに来る必要はないのかもしれないし、他の誰かのレッスンを受けたいと思うかもしれない。しかし彼らのほとんどは、自身のゲームを理論立てて理解したいという欲望において再現性が低下することを見過ごしている。彼らはゴルフを始めてまだ間もない頃、ほとんどビギナーと言って良い時点から、自身のストロークに対しての特定のコンセプトのストロークフォームを作ろうとし、どうすればそれが良いショットにつながるのかを考える。その場合、それらのコンセプトは常に外見上の観測の感覚を通じて作られるフォームとなる。こうした観測に基づき、このプレイヤーのイマジネーションはいくつかの異なるセオリーを一定の決まった方式として作り上げようとする。

 

ここで前述の、セオリーに関する50年前のサー・ウォルター・シンプソンの著作からの引用を思い出して欲しい。彼が指摘しているように、人間が考える動物である以上、プレイヤーがそのプレイについてのある部分を理論として取り上げることに譲歩するべき余地はある。しかしそれはあくまでレクリエーションのようなものであり、またより良いプレイを学んでいく上での深刻な障害となり得るという認識を忘れることがあってはならない。

 

既に私は、ゴルフというゲームを外見上の感性ではなく、タッチやフィーリングの感性から学ぶ必要があることを説いてきた。この原理的な事実は、多くのゴルファーがなぜ理論化を行う事で困難に陥るのかをよく説明している。このプレイヤーは、彼が以前に見たことのある、ある肉体的なアクションを再現しようとするという深刻な間違いを犯している。それらのアクションは、正しいストロークを行った際にしばしば普遍的に共通しているアクションに結果として付随したものにすぎない。本来行うべきことは、ストロークの方法あるいは彼自身のモデルを作ることであり、それは外見上の観測のような方法によって開発されたようなものであってはならない。

 

ではこうした外見上の視点が、正しいアクションの感性を掴むことできちんと効率的にゴルフを学ぶ方法をどのように阻害するかについての簡単な実例を紹介したい。少し前、私のところに、何度かのレッスンを通じて目覚ましい進歩を遂げた生徒がいた。あるときのレッスンの際、私はスイングの始動の方法について、ある特定の箇所から動かし始めるのではなく、全体を同時に動かし始める事の重要性を説明していた。この点についてさらに説明を続けるうちに、クラブのバックストロークもまたスイングでなければならず、押す、引く、持ち上げるなどの動作であってはならないことも述べた。私の意味することをデモンストレーションして見せた時、この生徒は私がバックスイングを開始する際に、クラブヘッドよりもわずかに早く両手が動き始めることに気づいた。

 

このことについて何ら説明をされていないにも関わらず、私のそのアクションが彼の印象に残り、私が言っていることは間違っていて、何か避けなければならないものとして結論づけられてしまっていた。数日後彼がまたレッスンを受けに来たとき、私は何かが彼の成長を止めてしまっていることに気づいた。彼がスイングを行おうとする際のわずかな緊張感、あるいはこわばりと言ったものがその証拠であった。私が彼にどうしてそのようにスイングがぎこちなくなってしまったのかを聞いてみると、彼は前回のレッスンで私が行ったデモンストレーションの時の両手の動きを観察したことを告げた。彼は素振りの最中に自分の両手の動きを見て、そして私がしていたように両手を動かすことをマネしようとしていたのである。

 

実際のところ、そうしたある特定のアクションそれ自体はなんら必然的なものではない。クラブの始動において、ヘッドをボールの後方に「引きずる」ように動かし始める歴史的なプレイヤーは何人でもいる。そのプレイヤーが、例えば手首の自由度と柔軟性を確保するため、あるいはクラブを強く握りすぎること避けるためといった特定の目的を達成することに役立つと納得している場合、意図した練習のうえでそうした方法を採用していると言うことは充分にあり得ることである。しかし何度も触れているように、そうしたものは単なるクセの域を超えるものではなく、上級者のプレイヤーのこうした手法、あるいはどんなささいなデバイスも同様にみなすべきである。疑いなく、こうしたプレイヤーたちは既に「スイング」のコツを完全に習得しているのであり、この「引きずる」始動はそれに付随するものでしかない。おそらくこうしたプレイヤーが、もし両手とクラブヘッドを同時に始動した方が良い結果が出ると感じたならば、彼はそうするようになるであろうし、しかもさほどの練習を必要とせず、それまでの「引きずる」始動のクセを完全に消し去ることができるはずである。

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