サイトアイコン 大庭可南太の「ゴルフをする機械」におれはなる!

はじめに

さぁいよいよアーネスト・ジョーンズさんによる本文です。

私がゴルフを始めたのはほんの小さな子供のとき、イングランドのマンチェスターでのことだった。18歳になったとき、ゴルフクラブのクラフトマン、また選手としての技量を認められて、チズルハーストゴルフクラブでアシスタントプロの仕事を得た。プレイヤーとしても着実に実績を積み上げて、何度か出場した全英オープンでも、出場出来たときは全ての大会で予選を通過することも出来た。

一方で私のプロとしての仕事は、他人にゴルフを教えることでもあった。しかし最初のうちは、私は人にゴルフを「教える」ということに関して何のアイデアも持ち合わせていなかった。状況としては、生徒に「どうやって石を投げるのか」を教えにいくようなものだった。実際のところ私はかなりの正確性で石を投げることが出来たし、それはゴルフのショットを上手く行うということと同じようなものだったが、そこからどうすれば良いというのだろう。

息を吐くように上手く出来すぎてそのやり方を教えられないヤツですね。

とは言え何かをしなければならなかった私は、ゴルフのプレーや、そのティーチングに関する書籍を注意深く読んでみることを始めた。その時代の代表的なプロゴルファーの本や、そのほかもたくさん読んでみたが、正直に告白すれば、ある一冊の例外を除いては、そうした努力は単に私の混乱を増すだけであった。というのは、そうした書籍のほとんどは内容に矛盾が生じているものばかりだったからだ。

それら書物の山の中でただ一冊「ジ・アート・オブ・ゴルフ(The Art of Golf)」という、1887年にサー・ウォルター・シンプソン氏によって書かれた書物だけは、それまでに出会った書籍とは明確に異なる側面からゴルフについて考え直す機会を与えてくれた点でとても役に立った。その本で指摘されていることで最も本質的なことは「ゴルフにおける絶対的な責務は一つしかない『ボールをヒットする』ことだ。それ以外は小事である」というものだった。

この本が強調していることは、優秀なプレイヤーとそうでもないプレイヤーを見比べるとき、その「ボールをヒットする」責務に注力して観察したならば、例えそれ以外の外見上の動作が全て同じであるとしても、優秀なプレイヤーのそれはその他のプレイヤーのものと必ず異なっているはずであるというものだった。もしこの説が正しいのであれば、要するに外見上の動作というものは付随して発生しているものに過ぎないということになる。またこの説を進めれば、ゴルフのティーチングにあたって、上級者のストロークの連続する動作を細かく切り取って分析するような手法は、非合理的であるということになる。

私自身まだ「ジ・アート・オブ・ゴルフ」の本を所有しているが、その発行から何年を経てもずっと大事にしている書籍である。この書籍があったことで、私がどうすれば上手く人にゴルフを教えることが出来るかのスタート地点に着くことが出来たのである。可能であれば是非一度読んでみることをお勧めする。

まー、一応英語版は買いましたけど(もちろん日本語版はたぶんないです)、なかなかに19世紀の英語はすんなり入ってこないので今んとこ積んであります。

第一次大戦が始まるとすぐに、私は大英陸軍に参加して1915年の11月に戦地であるフランスへと派遣された。翌年の3月までルース近郊で戦ったが、私はそこで重傷を負い、右脚の膝から下を切断しなければならなかった。イングランドに戻された私は、その後4ヶ月を病院で過ごした。回復に向かうなか、私はゴルフに復帰した。松葉杖を使いながら、最初のラウンドであるロイヤル・ノーウィッチでは83のスコアをマークし、それからすぐあとのデイビッド・アイトンとのラウンドでは、クラクトンの距離もある戦略的なレイアウトのコースで72をマークした。

このような経験談に触れるのは、戦傷による身体的ハンディキャップがあるにも関わらず、またそのために私のストロークが外見上はそれまでと大きく異なるものになったにも関わらず、依然として上々のゴルフが出来たことをお伝えしたかったからである。しかしこの事実は、ゴルフのプレイを学ぶ上で本質的に重要なことは、ストロークというものは完全に一つのアクションであるという理論を受け入れることと、その理論をクラブを振るという練習に落とし込むことであるという私の信条を確信に結びつけることとなった。

この頃私はいくつかエキジビションマッチに参加し、そうした試合を通じて後に「ザ・ゴルフスイング - アーネスト・ジョーンズのメソッド」という、ゴルフストロークの要点とは両手・両指から得られる感覚のもとクラブヘッドを制御することであることを説いた書籍の執筆者になる、デイリン・ハモンドと出会った。その後20年におよぶティーチングの実績を経て、この変わらぬ原則は私の信念をさらに確証し、強いものにしてきたと感じている。ゴルフをプレイすることはアート(art)であり、科学ではない。しかし私は「アート」の定義とは、「不必要なものをそぎ落とす」科学であると聞いたことがある。よって私はゴルフにひしめく不必要なものを極限までそぎ落とし、たった一つの原則、すなわち「クラブヘッドをスイングする」アートを追求したいと考えるようになったのだ。

私はもちろんこのことを、実務家としてのゴルフの指導者として主張している。私は、一連のストロークにおける解剖学的な身体の各部位がどのように連続して動いているかを分析することに重きを置く人々とケンカをしたいわけではない。我々ゴルファーにに、なぜそのような結果になるのかを理解するために、部分を切り取って考える事に好奇心を消費したいものが多いことは事実である。再びサー・ウォルター・シンプソンの言を借りれば、「アベレージゴルファーにとって、ゴルフにおける出来事を理論化してみることは、人間が考える動物である以上ある程度は許されていなければならない。しかしその一方で、そのゴルファーが『ゴルファーの主たる仕事はボールを打つ事である』という事実に気づかずに、また理論とはレクリエーションであるということに気づかないのであれば、そのゴルファーは決して上達しないか、あるいはプレイすることを辞めてしまうだろう」としている。

私が「クラブヘッドをスイングする」という表現が「ボールを打つ(ヒットする)」という表現よりも好ましいと考えているのは、その方が「打つ」動作よりも多様な動作が可能であるからだが、この点の詳細については本書のこれ以降の章で議論することとしたい。また本書は、この「スイング」という単語が、本来有るべきスイングに似つかわしいものかどうかに関わらず、既にプレイヤーがゴルフクラブを「振ること」と同義語として使われている点で、何ら新しい、あるいは革新的なことを主張しようとするものではない。しかし私は、「クラブヘッドをスイングする」ことで意味をなすものを満足に説明出来るのはかなり限られたプレイヤーであると考えており、高ハンデのゴルファーでストロークを「スイング」することで達成出来ている者はさらに少数になることも知っている。

しかし上記のことは、他人にティーチングを施すことに含まれる問題点についての、私の概念を明らかにするものでもある。私の言っていることはシンプルに聞こえるが、実際にもシンプルなのである。私はしばしば、あまりにもシンプル過ぎて生徒が「他にもっと重大な秘密があるはずだ」と勘ぐって信じてもらえないという問題に直面している。このため私は結局のところこれまで築いた指導者としての評判というものに頼らざるを得ないのである。もし読者諸君がこれ以降の章を読んで、「いくらなんでもはしょり過ぎだろう」と感じたならば、納得のいく結果を導き出すためのあらゆる方法について考えてきたが、私の二十年以上におよぶ模索をもってしても、これ以上見つからなかったのだと言うことを信じていただきたい。

良いゴルフとはプレイを簡単にするものであり、簡単なゴルフとは楽しめるゴルフである。残念なことは、多くのゴルファーが、あるいはゴルフをするときになると、まるでゴルフの奴隷のようになっていることである。もし本書に掲載されているインストラクションのメッセージを通じて、ゴルフの奴隷の大軍がほんの何割かでも、プレイヤーになれることに役立てもらえれば、これ以上ない幸いである。

アーネスト・ジョーンズ

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