1970年代に入り、ベン・ドイル他数人のコーチによって少しづつTGMは評価を受け始めた。

より正確な表現を期すためにTGMはこの間何度か改編を行うが、それはこの本が読みやすくなることとは同義ではなかった。表現を簡単なものにしていくことで多くの読者を得られる可能性はあったが、定義を曖昧にすることは内容そのものの理解に齟齬を与える可能性があった。結果として、TGMの功績のひとつであるが、現在の米国のゴルフ指導で使用されている単語はTGMによって初めて定義、使用されたものが数多くあるのである。

PGAも注目し始め、ホーマーとベン・ドイルは幾つかのPGA主催イベントで講演を行うまでになり、本の販売だけではなく、認定コーチの講習ビジネスも軌道に乗りだしたのである。

他方、ボビー・クランペット少年はベン・ドイルのコーチのもと、その才能を開花させていった。ベンはすぐにボビーにTGMを読ませ、ゴルフスイングの原理を学ばせた。ボビーは(多くのアメリカ人スポーツ選手がそうであるように)、野球、アメフト、バスケでも活躍していたが、どのスポーツに邁進するにも、いかんせん身体が小さかったことがゴルフに集中する所以となった。

ベンはゴルファーとしてのマナーにも厳しくボビーに教え込んだ。ある高校の試合で相手選手がバンカーショットの後のレーキでのならしを忘れていることに気づいたベンは、ボビーにパットの前にそのバンカーをならすことを命じた。

「なんで僕がそんなことしなくちゃいけないんだよ」

「相手はそれを見ていつかみんなにこう言うぞ『あの全米チャンピオンは俺たちが高校生の時の試合で、俺が忘れたバンカーのならしをかわりにやったんだ』ってな」

ボビー・クランペットは、ベンドイルと出会ってわずか2年で、ハンディキャップを8からスクラッチにした。17歳の時にカリフォルニアジュニア選手権で優勝し、全米ジュニアでもメダリストとなった。

ブリンガム・ヤング大学に進学したボビーは、一年生でチームの主将を務めることになった。彼は傍にいつもTGMを携え、24のコンポーネントを精密にチェックしながら彼のスイングを磨いていった。そしてこの年全米インカレを含む数多くのタイトルを総ナメにし、オール・アメリカン選出、また、フレッシュマン・オブ・ザ・イヤーにも選出されるのである。彼の「ゴルフィング・マシーン」が完成しつつあった。

ボビーはその正確無比なロングアイアンを武器に勝って勝って勝ちまくる。1978年の全米オープンでは史上最年少のベスト・アマ(それまでの記録はボビー・ジョーンズが持っていたもの)になると、全米アマチュア最高峰の試合であるポーター・カップも史上最年少で優勝するのである。

「僕は必要なことを全てこの本から学んだ。これはゴルフのメカニズムを個人の感性に翻訳するための必要な情報が全て含まれている」

ボビー・クランペットとTGMが様々なゴルフメディアで紹介されるようになり、TGMの売り上げも飛躍的に伸びていった。しかし多くの人の目に触れることで、その読みづらさも多くの批判にさらされることとなった。

「この本を読むにはあるコツがいるんだ。システムというか、それを理解すればこの本はそんなに読みづらいものではないんだ」と当時のボビーはメディアに向けてTGMを擁護している。

1980年までにボビーは数々のタイトルを手にした。

ホーマー・ケリーは彼のコンセプトを理解してくれる指導者を望んでいた。

ベン・ドイルは「表現」にとどまらないより深いゴルフへの理解を「説明」したいと考えていた。

クランペットは、父、もしくは友人のようなコーチを望んでいた。

ドイルは努力し、結果を出せる生徒を望んでいた。

ケリーは彼の研究がチャンピオンを生み出せることを証明したかった。

そしてクランペットは無条件に信頼することが出来るシステムを求めていた。

それぞれの思惑、努力、行為が正しい瞬間に交わったのである。

やっぱりそんなに読みづらいんだねーこの本(笑)

若き日のボビー君の映像はこちら

確かにほっそいけどむっちゃ振り抜いてるねー

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